議論の留意点。

 当然だけど、視線の暴力というのはこれまでだって随分と考えられてきた問題に違いない。しかしここで僕が重要視しているのは、そこには男性性をもったキャラクターが登場せず、それが読者の視線によって担われているという点である。分かりやすく例を上げるならば、萌え四コマの世界というのは、ノベルゲームに主人公の男がいない世界なのだと僕には思える(やっぱり、あまりよくしらない世界なのだけど)。
 また男性性をこじらせる、という意味では、女装マンガだったり実際に女装することが話題になったり、本田透の態度みたいなものとも無関係ではないだろう。

まんがにおける時間

 ここで、少し議論を膨らませておく。あずまんが大王らき☆すたも時間*1
というものが流れていることに注目しておこう。どちらの作品も高校生活の三年間を描いているのだ。
 しかし時間という絶対的に成長に必要なものを得ながら、彼女たちは一向に成長しない。あずまんが大王では、その世界のあまりのノイズのなさが、らきすたでは、世代交代によってせっかく導入されている時間が無効化されてしまう。(勿論、それはそれが望まれているのだけど)。そこに萌え四コマの欠落があるいは大いなる快楽が在るように思える。セカイ系のように成長に苦しむぐらいならば、それを予め排除された世界に自らを置いたほうがとても楽なのだ。
 あずまんが大王の次によつばとがくる理由は、僕の中では成長として捉えられる。よつばの歩みは確かに随分と遅く、ノスタルジックな雰囲気を存分に感じさせるものになっているが、よつばはすこしずつ成長していくのだ。また記号的身体の成長というマンガ史以来の命題に挑戦にしている浅野いにおおやすみプンプン』もインタビューでプンプンが大人になるまでを描くと述べている(あやすみというタイトルが僕にはプンプンの死を暗示しているように思われるが、杞憂であることを祈る)。僕の中でプンプンはよつばとを時間の流れをずっと速めるような作品になっていくのではないかという期待がある。
 と、最後は、ちょっとあまりにとびとびになって分かりづらくなってしまいましたが、この辺の議論はもう少し深く考えていきます。

*1:マンガにおける時間の議論は最近とても大事な気がしている。マンガは基本的に時間を書くのが難しいメディアで在るが、近年ヒットしている、ハチミツとクローバーげんしけんといった作品が時間というものを正確に書きえていることには、大変素晴らしい。人間が成長するのに絶対的に必要なのは時間である。

少女を脅かす視線

 さてここで、議論を戻すと、上で書いたとおり、あずまんが大王らき☆すたには、男性性は完全に撤退している。しかしながら、少女だけの萌え四コマの世界を、男性性というものが脅かさないはずはない。では、それはどこに行ってしまったのか。上でも書いたが、それは視線にである。読者の視線というものに、つまり非常に強い言い方をすれば視姦という形で、男性性が宿っているのである。私たちは、萌え四コマの世界ではカメラをもち、それでもってそれは少女たちの生活を(主に会話を)を盗撮・盗聴するに他ならない。萌え四コマの世界では、私たち視聴者・読者の男性性はそういう場所に追いやられている。だからこそ、安心して、彼女たちの生活をのぞくことが出来るのだ。 
 僕はそこに、自らの男性性に葛藤するセカイ系の作品に対して、萌え四コマの世界はその暴力性を巧みに隠し続けて読者を安心させ続けている。

 と、ここまでかなり批判的に書いているが、僕がそういう作品を拒絶しているかといえばそうではない。むしろ、逆に非常に楽しんでそういう作品を需要しているのだ。そこに、男性性の盗撮・盗聴の視線に気づきながらも、それを拒絶できないことの問題があるのだが、果たしてそれは僕個人の問題ではないだろう。そこには、より深い問題が在るように思える。(それは自らの男性性をどう引き受けるかという問題である)

本論 萌え四コマの幸福な世界

私が、例えば、『あずまんが大王』や『らき☆すた』について一番疑問に思うのは、
男性の不在ということだ。いや、男性と表記すると誤解が生まれかもしれない。どちらの作品も、木村先生やらこなたの父といったように男性は登場する。
しかし彼らには男性性というものが失われている。もう少し別の言い方をしよう。萌え四コマの世界は僕にはあまりに、ノイズのない世界に思えるのだ。例えば、そこにいる少女たちは決して『恋愛』に向かうことはないし、そこにいる男性キャラクターは少女たちに性的な視線を向けることはない。例えば、このことを昨日またまた再読した、『<美少女>の現代史』によると、男性にはこれまでに二段階の『立場の後退』があったという。一つ目は『ストレートにエッチな視線』からの撤退であり、二段目は女性の『本当の私を分かってくれる彼』という理想を体現するような『彼女を分かって上げられる僕』という新しい特権の欺瞞に気づいてしまったということである。ここにきて『視線という暴力を投げかける者』としての『視線としての私』の暴力性に気づいてしまったのです。これが 二つの撤退である*1。僕には萌え四コマの世界というものが、この二度の撤退を受けたあとに、それでもなお、その暴力性の快楽を周到に隠蔽している世界を描いている気がしてならないのだ。

*1:おそらく九十年代初頭から始まるトラウマを抱えた少女を精神科医顔負けに癒して治してしまう主人公というのは、この視線の暴力性の欺瞞に気づき、トラウマというものを特権化することで再び、『本当の私を分かってくれる彼』像を安定させたのだ。

結論

萌え四コマというか、あずまんが大王らき☆すたについてここでは書きます。
(他にも、幾つかの作品は見ていますが、一番語りやすいので)

 結論から言えば、
『萌え四コマというのは、セカイ系*1よりもよりさらに引きこもり感覚に近い、視姦に近いまなざしにより少女たちの世界を覘く作品群である。』(ここではわざと誇張してます)

*1:セカイ系宇野常寛の表現では、無条件で自分にイノセントな愛情を捧げてくれる美少女からの全肯定』=『キモチワルイ(他者)』のないセカイ。『〜しない、モラル』と『他者(キモチワルイ)を受け入れる』に背を向けて、渡辺淳一的なロマンティシズムの導入の選択することで、成り立つ幼稚な想像力、となる。確かにセカイ系にでてくる少女は無条件にイノセントな愛情を主人公に振りまく存在として書かれているが、主人公はその愛情をそのまま受け取っていいのか(相手が世界を背負っているということもあるし)という葛藤が辛うじて在るのではないだろうかと思う。(勿論、涼宮ハルヒの憂鬱のように完全にセカイ系をネタ(メタセカイ系として)にしてしまえば、そこに葛藤はないだろうが)。何がいいたいかというと、そこには性愛という暴力を恐れるだけのものがあるじゃないかと、自身の男性性とどう向き合うかという葛藤があると思われる

萌え四コマ試論(というか、らき☆すたについて)

以下の文章は読み手にとっては、萌え四コマをかなり批判されたかのように思われるかもしれません。なお、私はセクシャリティーを語ることについては門外漢ですし、何より萌え四コマと呼ばれる作品群については殆ど無知といっていい近いレベルでこの文章を書いています。また論者は卒論でここ十数年のサブカルチャー作品における成長というものを書かなければならない関係上、『成長』に拘りすぎているきらいがあります。
(ブログ論壇に疎いですが
以下のサイト様から萌え四コマやらき☆すたについて学ばせていただきました)
(http://app.blog.livedoor.jp/sweetpotato/tb.cgi/30765705
http://d.hatena.ne.jp/Shsgs/20070809
http://d.hatena.ne.jp/makaronisan/20070721/1184950915)

③決断主義への処方箋(以下より『PLANET vol.3』、『決断主義にどう抗うか』のまとめ)

・次の十年の想像力
 宇野は、今のバトルロワイヤルの状態は緩和するという。それは何故だろうか。90年代が引きこもりの時代であるのに対して、ゼロ年代は噴きあがりの時代である。引きこもっていたら殺されてしまうという問題が、セカイ系からバトルロワイヤル系への変化を生んだように、噴きあがっていたら負けることと疲れること、という点に問題が出てくるだろうと宇野は指摘する。噴きあがったら疲れてしまう、その意識からバトルロワイヤル状況の緩和が起こると宇野は考える。
 それはどういう形で起こるか。それはコミュニティーの層ではなく、アーキテクチャーの層で起こる。つまり欲望の赴くままにバトルに赴くプレイヤーが、アーキテクチャーの層で管理されることで、過剰競争は制限されるのではないだろうか。ここでいうコミュニティーの層をデスノートで例えると、夜神月個人の意志や思想、アーキテクチャーの層とはデスノート定められたルールである。
 アーキテクチャーそのものは人間ではないが、アーキテクチャーを司るはアーキテクストは人間でしかありえない。宇野はこれからの十年の想像力を、ある場面ではコミュニティーの層でプレイヤーである人間のうち、限られた自覚的なプレイヤーが、多くの場合バトルロワイヤルを勝ち抜くことでアーキテクストとして機能する。そしてそのアーキテクストとして新しいルールを作り、バトルロワイヤルを制限する。そういうものだと考えている。(再び例としてデスノートを出せば、夜神月がニアに勝ち、世界を支配している状態を想像すればいいのではないだろうか)

ゼロ年代の病への処方箋
 過剰流動性下で人々が性急に決断主義的にロマンティシズムを求め、その確保の為に島宇宙の中に閉塞し、思考停止してしまう。これがゼロ年代の病であるとすればその処方箋は、『コミュニティの流動性確保』と『意味(ロマン)の備給』の両立に主眼が置かれる。
 
・処方の可能性
 宇野はその可能性を宮藤官九郎の一連のドラマ『池袋ウエストゲートパーク』や『木更津キャツアイ』の『地名』シリーズ で考える。それはキミとボクのセカイでも、国や社会でもなく、中間共同体の再構成である。宮藤に共通するのは『別に歴史や社会の仕組みに裏づけられているわけではない、一見、脆弱な共同体』が発生し、それがごく短期間だが確実に人間を支え、そして最後はきっちり消滅することだ。それは意外に高い強度を持つが、永遠のものでも、超越したものでもない。他愛ない日常の積み重ねでありそれは一瞬のものだ。そんな終わりのある日常の中にこそ、人を支えるものが発生する可能性を見出し、なかなか魅力的なモデルだとしている。
 またよしながふみ の作品における、『複数の人間との、ゆるやかなつながり 』というのもやはり、歴史とも社会とも切り離された『新しい共同体主義』とでも言うべきスタイルにゼロ年代の病の克服のヒント があるとしている。

・希望としての『仮面ライダー電王
 仮面ライダー電王において、四つの人格を戦う敵ごとに使い分けて闘う主人公を、彼にとって世界は『戦う相手』ではなく『パートナ』ごとに切り替えて合わせるものだ。
 また、碇シンジがセカイと自分の関係について煩悶したとき、その内面は彼が孤独に佇む電車の車両として表現された。それに対して、電王では、主人公の内面は異空間を走る電車「デンライナー」で隠喩的に表現されているがその車両においては、彼は孤独ではありえない。そこには彼を異質なものに変化させる四人の他者―イマジンがいる。そしてそこにはあろうことか、コーヒーを売るウェイトレスがいて、彼を仮面ライダーに任命した組織スタッフたちまでもが住んでいる。つまり「社会」があるのだ。
 それがポジティブに書かれる様に、かって人格が壊れた状態としてかかれた多重人格が180度別の視点から書かれている様に、宇野は希望をみる。