本論 萌え四コマの幸福な世界

私が、例えば、『あずまんが大王』や『らき☆すた』について一番疑問に思うのは、
男性の不在ということだ。いや、男性と表記すると誤解が生まれかもしれない。どちらの作品も、木村先生やらこなたの父といったように男性は登場する。
しかし彼らには男性性というものが失われている。もう少し別の言い方をしよう。萌え四コマの世界は僕にはあまりに、ノイズのない世界に思えるのだ。例えば、そこにいる少女たちは決して『恋愛』に向かうことはないし、そこにいる男性キャラクターは少女たちに性的な視線を向けることはない。例えば、このことを昨日またまた再読した、『<美少女>の現代史』によると、男性にはこれまでに二段階の『立場の後退』があったという。一つ目は『ストレートにエッチな視線』からの撤退であり、二段目は女性の『本当の私を分かってくれる彼』という理想を体現するような『彼女を分かって上げられる僕』という新しい特権の欺瞞に気づいてしまったということである。ここにきて『視線という暴力を投げかける者』としての『視線としての私』の暴力性に気づいてしまったのです。これが 二つの撤退である*1。僕には萌え四コマの世界というものが、この二度の撤退を受けたあとに、それでもなお、その暴力性の快楽を周到に隠蔽している世界を描いている気がしてならないのだ。

*1:おそらく九十年代初頭から始まるトラウマを抱えた少女を精神科医顔負けに癒して治してしまう主人公というのは、この視線の暴力性の欺瞞に気づき、トラウマというものを特権化することで再び、『本当の私を分かってくれる彼』像を安定させたのだ。