②『新しい想像力』=『決断主義』とは何か?

・『決断主義』=『価値観の宙吊り耐えられない弱い人間(自身を含む)のために、無根拠を承知で中心的な価値観を信じる態度』(社会的な背景としては、アメリカの同時多発テロや小泉前首相の『構造改革』がある)

・『決断主義』に至る理由=『そうしなければ、生き残れない』
 決断主義とは、ポストモダン状況が推し進めるコミュニティの多様化と棲み分けの徹底が必然的に生む態度。
「対象にコミットすれば過ちを犯すのでコミットしない」という引きこもりの思想は、バトルロワイヤル状況を生きる現代の若者に、『そんな甘いこと言ってた生き残れない』と一蹴されるに過ぎない。そうして、『万人が決断主義者となって争うバトルロワイヤル状況』になる。
 
◇『軽くなる現実』と『重くなる現実』
では、なぜ95年の思想は夭折してしまったのか。それは、この時代の日本で徹底化されたポストモダン状況の半分しか視界に入れてなかったからである。ポストモダン状況下においては、単一の強大なアーキテクチャーの上に、無数の多様なコミュニティが乱立する。コミュニティとは単一な強大なインフラ(windowsmixi)の上で展開される多種多様な消費稼動や人間関係のことである。そしてそこで行われる、コミュニケーションは多種多様でしかもリセットできる。このリアリティの変容を宮台は『現実が軽くなった』と表現したが、それはコミュニティの層の話である。しかしながら現実の総質量は変わらないので、その分アーキテクチャーの層が重くなる。95年の思想が夭折した理由はここにある。
95年の思想は、いずれも『軽くなった現実』ばかりに意識が集中しすぎた。ある者はその自由さを過大評価し(=前期宮台、動物化)、ある者はその無秩序さに絶望した(=エヴァセカイ系、脱正議論)。
 決断主義はこの『軽くなった現実』の『軽さ』に人間は耐えられない『焦りの思想』でもある。『決断主義』を克服するには、90年代後半の思想が見失っていた、『むしろ重くなった現実』−『リセットできない現実』を考えることにあるのではないだろうか。

『リセットできない現実』とは何か、それは恋愛であり、時間であり、死である。
 宇野は2006年にヒットした『時をかける少女』において、リセットできないものを見て取る。『時をかける少女』において主人公の女の子は何度も時間をリセットできるタイム・リープという能力を手にして(リセットであるというのは、東の言葉 を借りると、「この分岐だとまずい展開になってきたので、さっきのセーブポイントまで戻るか」という行為に近い、簡単に言うと戻ったときに同じ時制の自分に出会わないということ)、周囲の人間関係を調整すべく何度もリセットするが、どれほどリセットを繰り返しても帰られないものが在るということ悟り、楽しかった時間の終わりを受け入れる。
 この映画が広く受け入れられたのは、ある層では軽くなる現実に対して、リセット不可能な部分が規定されて現実を生き、時には傷ついて『入れ替え不可能なもの』を求め続けからに他ならない。