宇野常寛 『ゼロ年代の想像力』 

大分、知れ渡っているゼロ年代の想像力ですが、
ちらほら見ただけでも、色々なところで言及されているみたいですね。
(http://d.hatena.ne.jp/n_euler666/20070816/1187201873
http://d.hatena.ne.jp/nuff-kie/20070819/1187522954
http://d.hatena.ne.jp/SuzuTamaki/20070801/1185975060)


なかなか読むのが面倒な雑誌に掲載されているので
以前、レジュメをきったので、
議論のあらすじをしりたい人はどうぞ。
(他のとこでも散々されているのですが、なるべく原文のまままとめています)
ただ内容は、ゼロ年代の想像力の第二回までと
『PLANET vol3』までです。いずれ最新号までまとめる予定。

◇あらすじ――1995年からゼロ年代へ

 ここでは、宇野の『ゼロ年代の想像力』の連載の二回分、及び『決断主義にどう抗うか――ゼロ年代の処方箋』をまとめる。

宇野の主張のあらすじを簡単に箇条書きにすると、
①時代に追いつかない『批評』への批判
②『95年の思想』の終わりと『決断主義』の時代
③『決断主義』とどう付き合うか?(処方箋)

以上、三つが挙げられる。ではそれぞれについて説明していこう。

オマケ 作品、作家の区分

セカイ系的(引きこもり的)感性
佐藤友哉滝本竜彦新海誠ほしのこえ』『雲のむこう、約束の場所
 高橋しん最終兵器彼女』、
・バトルロワイヤル的感性―決断主義
デスノート』『コードギアス』『新本格魔法少女りすか
『バトルロワイヤル』『リアル鬼ごっこ』『仮面ライダー龍騎
野ブタ。をプロデュース』『蹴りたい背中』『りはめより100倍恐ろしい』
女王の教室』『ドラゴン桜』『砂糖菓子の弾丸では撃ち抜けない』
・宇野が期待する作品群
仮面ライダー電王』『時をかける少女』『フラワーオブライフ』『木更津キャッツアイ

①時代に追いつかない、批評。

宇野は現在の文化空間には二つの想像力があるいう。一つは1995年から2001年ごろまで支配的であった『古い想像力=引きこもりの思想』であり、もうひとつは2001年ごろから芽吹き始め、今現在、私たちの時代を象徴する『現代の想像力=決断主義』であるという。しかしながら、多くの批評家はこの想像力のシフトに気づかず、未だに『古い想像力』が現役であるかのように錯覚している。
その批評家の怠惰(主に『オタク』の世界と『批評』の世界)によってもたらされた結果が、『古い想像力』と『現代の想像力』が並立してしまう状態である、と宇野は主張する。例えば、2003年前後に創刊された『ファウスト』における佐藤友哉滝本竜彦は『古い想像力』に基づいた小説を書いていたが部数としては好調であった(雑誌『ファウスト』はその後転向し=古い想像力からの脱却する、東浩紀はその転向以後『ファウスト』とは距離をとる)。その一方で、『新しい想像力』に基づくサブカルチャーの作品群もまたヒットしていくことになる

『95年の思想』と『決断主義
 では上の二つの想像力の具体的な中身についてここでは見ていこう。宇野は『古い想像力』=『95年の思想』として三つの具体例(宮台の『まったり革命』、『エヴァ』、小林の『脱性議論』)を挙げる。それらついてまとめた上で、『現代の想像力』の説明をしよう。

◇『まったり革命』から『動物化』へ
 宮台は1995年において、『終わりなき日常を生きろ』というキャッチフレーズのもと、『まったり革命』を提唱した。それは社会的自己実現への信頼が低下した95年以降の世の中を、手に入れにくくなった『生きる意味』を求めるのはやめて、『終わりなき日常』を『まったり』とやりすごそうということである。(ex. 援助交際に興じる少女、オタク)
 しかしながら、現実と虚構が曖昧になった95年以降の『軽い現実』をスルーできる『ニュータイプ』としての彼ら彼女らは、ゼロ年代に入ると『軽い現実』の高い流動性に任せる『動物』でしかないということが明らかになる。彼らは『軽い現実』が浸透することで社会的自己実現への意欲を見失い、ただ記号的な快楽を消費するだけの『動物』だ。『軽い現実=消費活動』に耽溺する一方で『重い現実=恋愛、加齢』に打ちのめされる。
 
◇『エヴァ』から『セカイ系』へ
 『エヴァンゲリオン』TV版――『世の中が正しい道を示してくれないなら、何もしないで引きこもる』⇒『何かにコミットすれば必然的に誤り、他人を傷つけ自分を傷つける』  =『〜しない、というモラル』
 『エヴァンゲリオン』劇場版――『内面への引きこもりを捨て、互いに傷つけあうことを受け入れて他者と一緒に生きていくことの選択』=『他者(キモチワルイ)を受け入れて生きていく』

セカイ系 』=『無条件で自分にイノセントな愛情を捧げてくれる美少女からの全肯定』=『キモチワルイ(他者)』のないセカイ
 『〜しない、モラル』と『他者(キモチワルイ)を受け入れる』に背を向けて、渡辺淳一的なロマンティシズムの導入の選択することで、成り立つ幼稚な想像力

◇『脱正義論』から『戦争論』へ
 『脱正議論』=『〜しない、モラル』のもとで(引きこもるのではなく)『トライ・アンド・エラーを繰り返しながら対象との距離を検討し続ける』という態度。
⇒『戦争論』=『弱い人間は95年の思想に耐えられない』ということを前提に、『価値間の宙吊りに耐える』から『(究極的には無根拠でも)中心的な価値を選びなおす』立場への転向へ。

②『新しい想像力』=『決断主義』とは何か?

・『決断主義』=『価値観の宙吊り耐えられない弱い人間(自身を含む)のために、無根拠を承知で中心的な価値観を信じる態度』(社会的な背景としては、アメリカの同時多発テロや小泉前首相の『構造改革』がある)

・『決断主義』に至る理由=『そうしなければ、生き残れない』
 決断主義とは、ポストモダン状況が推し進めるコミュニティの多様化と棲み分けの徹底が必然的に生む態度。
「対象にコミットすれば過ちを犯すのでコミットしない」という引きこもりの思想は、バトルロワイヤル状況を生きる現代の若者に、『そんな甘いこと言ってた生き残れない』と一蹴されるに過ぎない。そうして、『万人が決断主義者となって争うバトルロワイヤル状況』になる。
 
◇『軽くなる現実』と『重くなる現実』
では、なぜ95年の思想は夭折してしまったのか。それは、この時代の日本で徹底化されたポストモダン状況の半分しか視界に入れてなかったからである。ポストモダン状況下においては、単一の強大なアーキテクチャーの上に、無数の多様なコミュニティが乱立する。コミュニティとは単一な強大なインフラ(windowsmixi)の上で展開される多種多様な消費稼動や人間関係のことである。そしてそこで行われる、コミュニケーションは多種多様でしかもリセットできる。このリアリティの変容を宮台は『現実が軽くなった』と表現したが、それはコミュニティの層の話である。しかしながら現実の総質量は変わらないので、その分アーキテクチャーの層が重くなる。95年の思想が夭折した理由はここにある。
95年の思想は、いずれも『軽くなった現実』ばかりに意識が集中しすぎた。ある者はその自由さを過大評価し(=前期宮台、動物化)、ある者はその無秩序さに絶望した(=エヴァセカイ系、脱正議論)。
 決断主義はこの『軽くなった現実』の『軽さ』に人間は耐えられない『焦りの思想』でもある。『決断主義』を克服するには、90年代後半の思想が見失っていた、『むしろ重くなった現実』−『リセットできない現実』を考えることにあるのではないだろうか。

『リセットできない現実』とは何か、それは恋愛であり、時間であり、死である。
 宇野は2006年にヒットした『時をかける少女』において、リセットできないものを見て取る。『時をかける少女』において主人公の女の子は何度も時間をリセットできるタイム・リープという能力を手にして(リセットであるというのは、東の言葉 を借りると、「この分岐だとまずい展開になってきたので、さっきのセーブポイントまで戻るか」という行為に近い、簡単に言うと戻ったときに同じ時制の自分に出会わないということ)、周囲の人間関係を調整すべく何度もリセットするが、どれほどリセットを繰り返しても帰られないものが在るということ悟り、楽しかった時間の終わりを受け入れる。
 この映画が広く受け入れられたのは、ある層では軽くなる現実に対して、リセット不可能な部分が規定されて現実を生き、時には傷ついて『入れ替え不可能なもの』を求め続けからに他ならない。

③決断主義への処方箋(以下より『PLANET vol.3』、『決断主義にどう抗うか』のまとめ)

・次の十年の想像力
 宇野は、今のバトルロワイヤルの状態は緩和するという。それは何故だろうか。90年代が引きこもりの時代であるのに対して、ゼロ年代は噴きあがりの時代である。引きこもっていたら殺されてしまうという問題が、セカイ系からバトルロワイヤル系への変化を生んだように、噴きあがっていたら負けることと疲れること、という点に問題が出てくるだろうと宇野は指摘する。噴きあがったら疲れてしまう、その意識からバトルロワイヤル状況の緩和が起こると宇野は考える。
 それはどういう形で起こるか。それはコミュニティーの層ではなく、アーキテクチャーの層で起こる。つまり欲望の赴くままにバトルに赴くプレイヤーが、アーキテクチャーの層で管理されることで、過剰競争は制限されるのではないだろうか。ここでいうコミュニティーの層をデスノートで例えると、夜神月個人の意志や思想、アーキテクチャーの層とはデスノート定められたルールである。
 アーキテクチャーそのものは人間ではないが、アーキテクチャーを司るはアーキテクストは人間でしかありえない。宇野はこれからの十年の想像力を、ある場面ではコミュニティーの層でプレイヤーである人間のうち、限られた自覚的なプレイヤーが、多くの場合バトルロワイヤルを勝ち抜くことでアーキテクストとして機能する。そしてそのアーキテクストとして新しいルールを作り、バトルロワイヤルを制限する。そういうものだと考えている。(再び例としてデスノートを出せば、夜神月がニアに勝ち、世界を支配している状態を想像すればいいのではないだろうか)

ゼロ年代の病への処方箋
 過剰流動性下で人々が性急に決断主義的にロマンティシズムを求め、その確保の為に島宇宙の中に閉塞し、思考停止してしまう。これがゼロ年代の病であるとすればその処方箋は、『コミュニティの流動性確保』と『意味(ロマン)の備給』の両立に主眼が置かれる。
 
・処方の可能性
 宇野はその可能性を宮藤官九郎の一連のドラマ『池袋ウエストゲートパーク』や『木更津キャツアイ』の『地名』シリーズ で考える。それはキミとボクのセカイでも、国や社会でもなく、中間共同体の再構成である。宮藤に共通するのは『別に歴史や社会の仕組みに裏づけられているわけではない、一見、脆弱な共同体』が発生し、それがごく短期間だが確実に人間を支え、そして最後はきっちり消滅することだ。それは意外に高い強度を持つが、永遠のものでも、超越したものでもない。他愛ない日常の積み重ねでありそれは一瞬のものだ。そんな終わりのある日常の中にこそ、人を支えるものが発生する可能性を見出し、なかなか魅力的なモデルだとしている。
 またよしながふみ の作品における、『複数の人間との、ゆるやかなつながり 』というのもやはり、歴史とも社会とも切り離された『新しい共同体主義』とでも言うべきスタイルにゼロ年代の病の克服のヒント があるとしている。

・希望としての『仮面ライダー電王
 仮面ライダー電王において、四つの人格を戦う敵ごとに使い分けて闘う主人公を、彼にとって世界は『戦う相手』ではなく『パートナ』ごとに切り替えて合わせるものだ。
 また、碇シンジがセカイと自分の関係について煩悶したとき、その内面は彼が孤独に佇む電車の車両として表現された。それに対して、電王では、主人公の内面は異空間を走る電車「デンライナー」で隠喩的に表現されているがその車両においては、彼は孤独ではありえない。そこには彼を異質なものに変化させる四人の他者―イマジンがいる。そしてそこにはあろうことか、コーヒーを売るウェイトレスがいて、彼を仮面ライダーに任命した組織スタッフたちまでもが住んでいる。つまり「社会」があるのだ。
 それがポジティブに書かれる様に、かって人格が壊れた状態としてかかれた多重人格が180度別の視点から書かれている様に、宇野は希望をみる。