?決断主義への処方箋(以下より『PLANET vol.3』、『決断主義にどう抗うか』のまとめ)

・次の十年の想像力
 宇野は、今のバトルロワイヤルの状態は緩和するという。それは何故だろうか。90年代が引きこもりの時代であるのに対して、ゼロ年代は噴きあがりの時代である。引きこもっていたら殺されてしまうという問題が、セカイ系からバトルロワイヤル系への変化を生んだように、噴きあがっていたら負けることと疲れること、という点に問題が出てくるだろうと宇野は指摘する。噴きあがったら疲れてしまう、その意識からバトルロワイヤル状況の緩和が起こると宇野は考える。
 それはどういう形で起こるか。それはコミュニティーの層ではなく、アーキテクチャーの層で起こる。つまり欲望の赴くままにバトルに赴くプレイヤーが、アーキテクチャーの層で管理されることで、過剰競争は制限されるのではないだろうか。ここでいうコミュニティーの層をデスノートで例えると、夜神月個人の意志や思想、アーキテクチャーの層とはデスノート定められたルールである。
 アーキテクチャーそのものは人間ではないが、アーキテクチャーを司るはアーキテクストは人間でしかありえない。宇野はこれからの十年の想像力を、ある場面ではコミュニティーの層でプレイヤーである人間のうち、限られた自覚的なプレイヤーが、多くの場合バトルロワイヤルを勝ち抜くことでアーキテクストとして機能する。そしてそのアーキテクストとして新しいルールを作り、バトルロワイヤルを制限する。そういうものだと考えている。(再び例としてデスノートを出せば、夜神月がニアに勝ち、世界を支配している状態を想像すればいいのではないだろうか)

ゼロ年代の病への処方箋
 過剰流動性下で人々が性急に決断主義的にロマンティシズムを求め、その確保の為に島宇宙の中に閉塞し、思考停止してしまう。これがゼロ年代の病であるとすればその処方箋は、『コミュニティの流動性確保』と『意味(ロマン)の備給』の両立に主眼が置かれる。
 
・処方の可能性
 宇野はその可能性を宮藤官九郎の一連のドラマ『池袋ウエストゲートパーク』や『木更津キャツアイ』の『地名』シリーズ で考える。それはキミとボクのセカイでも、国や社会でもなく、中間共同体の再構成である。宮藤に共通するのは『別に歴史や社会の仕組みに裏づけられているわけではない、一見、脆弱な共同体』が発生し、それがごく短期間だが確実に人間を支え、そして最後はきっちり消滅することだ。それは意外に高い強度を持つが、永遠のものでも、超越したものでもない。他愛ない日常の積み重ねでありそれは一瞬のものだ。そんな終わりのある日常の中にこそ、人を支えるものが発生する可能性を見出し、なかなか魅力的なモデルだとしている。
 またよしながふみ の作品における、『複数の人間との、ゆるやかなつながり 』というのもやはり、歴史とも社会とも切り離された『新しい共同体主義』とでも言うべきスタイルにゼロ年代の病の克服のヒント があるとしている。

・希望としての『仮面ライダー電王
 仮面ライダー電王において、四つの人格を戦う敵ごとに使い分けて闘う主人公を、彼にとって世界は『戦う相手』ではなく『パートナ』ごとに切り替えて合わせるものだ。
 また、碇シンジがセカイと自分の関係について煩悶したとき、その内面は彼が孤独に佇む電車の車両として表現された。それに対して、電王では、主人公の内面は異空間を走る電車「デンライナー」で隠喩的に表現されているがその車両においては、彼は孤独ではありえない。そこには彼を異質なものに変化させる四人の他者―イマジンがいる。そしてそこにはあろうことか、コーヒーを売るウェイトレスがいて、彼を仮面ライダーに任命した組織スタッフたちまでもが住んでいる。つまり「社会」があるのだ。
 それがポジティブに書かれる様に、かって人格が壊れた状態としてかかれた多重人格が180度別の視点から書かれている様に、宇野は希望をみる。